蚕糸・絹業提携グループ 全国連絡協議会

”Y” 糸/Yarns かつて世界一だった日本の生糸

2019年度、一般財団法人大日本蚕糸会とともに、蚕糸・絹業提携グループ全国連絡協議会は、日本における絹の歴史や文化を紹介するために、ブランドブック「26の物語で紡ぐ日本の絹」を作成しました。
takaraginu.comではWEB公開企画として、追加取材で作成した記事ととも、AからZまでのアルファベット順に更新していきます。

”Y” 糸/Yarns
かつて世界一だった日本の生糸

歴史が動いた近代化の時

明治時代、日本の輸出の約8割を占めていた絹製品ですが、その成功はいくつかの偶然から起こりました。当時、欧州では蚕の病気が蔓延、中国では阿片戦争の混乱により、生糸の生産は激減しました。

そのタイミングで1859年に横浜港が開港、結果日本の絹の需要は爆発的に増え、輸出が拡大しました。

各国から洋式製糸場建設許可が相次ぐ中、養蚕製糸業が莫大な利益を生むものだという知識を持っていた渋沢栄一が、明治3年に官営富岡製糸場建設の責任者になったことも、近代産業の育成の第一歩になったのでしょう。

全国へ技術革新の波

幕末の開港とともに関東近県の生糸の問屋はこぞって横浜に集まり、群馬から生糸を運ぶ道はシルクロードと呼ばれました。日本の絹の輸出量は増えましたが、粗悪品も多く、品質の信用は得られませんでした。

そこで政府は富岡製糸場での繰糸器械の開発、工女の訓練、蚕の品種改良などあらゆる策により、高品質の生糸の大量生産を目指しました。

富岡で技術を獲得し、地方の製糸場の人材を養成するという目的は果たされ、農家の副業だった養蚕は各地方を代表する近代産業へと生まれ変わりました。

生産者の品質向上の証

日本各地の生糸の品質の底上げと同時に製糸業者や組合がおこなったのは、輸出時の品質管理を証明する商標の発行です。各社独自のデザインで生産元を明らかにし、英語と日本語で会社名と所在地が記されています。品質によりデザインを変えるなど、生産者の責任が感じられます。ほとんどの会社や組合はなくなりましたが、現在でも稼働している製糸業者や、第一線の繊維会社になった会社などがあり、世界に誇れる生糸の歴史を商標が象徴しています。

[参考資料] 
『絹の国拓く―世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」』( 上毛新聞社 )